中学時代
バスケしてました。
高校受験は失敗して、当時は萎えていました。
高校時代
唯一覚えているのが、当時担任だった先生が「一生勉強だぞ!」と言ったことでした。
その時はこいつ何言ってんだ、大学卒業して就職したら勉強なんてするわけねーじゃんって思ってましたが、就職してから、「あ。確かに勉強しないとだめだ。」と今でも納得してます。
大学受験は失敗したくないのと、公立に受かった友達を見返してやろうという精神で勉強してました。公立高校に行った友達の動向が気になっていたので、たまにコンタクトを取って今どこ勉強しているのか、公立と私立で差がないかを比較して、確認したりもしてました。
今思うと当時の私立の先生方は、親身になってわからないところを教えてくれていたので、とても感謝しています。
大学時代
無事に受験に合格して、東北大学の工学部、機械知能・航空工学科に入りました。
ここの学科は、当時の受験倍率だとたしか1.7倍くらいでそこまで高くないけど、そこそこのいいところなので、工学部を考えている方はおすすめです。
MH 2Gが当時流行っていて、600時間くらい友達と遊んでました。
バスケサークル→バスケ部を2年生の途中までしていましたが、体育会系の飲み会のノリと、その頻度が多く経済的に苦しくなりそだったので辞めて、退部した友達同士でゆるいバンド活動を卒業までしてました。
将来の就職先について、不透明でそのときは何も考えていなかったのと、大学院試験の免除があったことから、そのまま大学院に進みました。
大学院では原子力系を専攻
計算機を用いた軽水炉の解析、フォートランを使用していました。
量子系を専攻したのが、失敗までとは思いませんでしたが、原子力系を大学院でも専攻したのは微妙だったなと思っています。
当時原子炉の炉心設計や開発方面に関心があり、それに携われる企業を考えていました。日本では無理でも大手企業なら、海外で原子炉の建設する可能性はあったためです。
IT企業を希望をしていた訳ではなかったが、第一希望に落ちたため、内定を貰ったところに就職しました。今思うと結果論にはなりますが、第一志望(原子力関連の企業)に落ちていて良かったのかとも思っています。もし受かっていたら、また別の未来が待っていたでしょう。少なくとも海外に在住はしてないかと思います。
日本での会社員時代
・テストの仕方、基本設計~詳細設計、コーディングの仕方について仕事を通じて学ぶ。
・3年目でプロジェクト管理の経験を積む。
・Java, VBA, Perlを使ったシステムに携わる。
就職してからは埼玉にある寮から1時間くらいで東京に出勤していました。
しかし寮には5年間という制約があり、6年目からは寮を出ていかなければならなかった。
会社の待遇や制度は決して悪いものではなく、交通費支給、住宅手当もあり、昇給試験に合格すれば昇給もあれば、会社指定の資格を取得すれば報奨金が出る制度もあった。
3年目くらいになったときに、このまま今の会社を継続した場合、今の寮よりも高い家賃を支払わなくてはならなくなり、当然手取りとしては賃貸次第では少なることや引っ越しをしたら、すぐには辞めるのが難しくなることも頭をよぎっていました。
その頃ぐらいから、海外での語学留学を考え始めていました。
英語を学んだ後、海外で就職するためでした。
当時の仕事の内容としては業務知識がかなり専門的に必要であり、属人化する傾向があった。4年目のときにあまりやりたくないシステムの担当をさせられていたこともあり、モチベーションは低下していた。
このまま5年目に突入したら、うまく去るに去れなくなるように気がしていたこともあり、4年目の終わりに際に思い切って退職を決めて、留学をすることにした。
最初はセブ島に留学
朝から晩まで英語漬けの日々が3ヶ月続きました。
私の留学先はCIA(Cebu International Academy)というところで、TOEIC、IELTs、ESL、Business class など様々なコースがありました。
私はTOEICコースを選択していました。今振り返るとTOEICである必要性はなかったかと思いますが、Speakingの授業もあったため後悔はしていません。また文法(grammar)を英語で学ぶというのは新鮮でした。
最後の1ヶ月でBusiness classに変更しました。
他の生徒はBusiness classがつまらないという意見を聞きましたが、私はグループクラスでディスカッションができたり、最後にプレゼンをできたりしたのがよかったと思っています。
セブでゆるい感じのBusiness classを踏んでなかったら、トロントでより苦労したかもしれません。
セブ島留学後は、カナダのトロントへ
トロントではビジネス英語を選択して、午後から3時間程の授業を平日受けていました。
当然先生はネイティブなので、結構聞き取れないときが多かったです。
一番きついというか難しかったのは、長めのビデオを見てそれについて、感想や意見を述べるみたいなやつです。5人くらい登場人物が出てきて、ビジネスでの交渉シーンを聞いて、整理する必要があります。
最終的にそれぞれの登場人物が、どの意見に近いかを選ぶ問題などがあり、終始集中して見る必要があります。
しかし、当時の私の場合だと、最初の方の内容が頭から抜けて、中間か最後くらいしか覚えていられませんでした。
またApprentice というイギリスの番組を見て、要約するいった課題があり、これは私にとって結構難易度高めでした。
Apprenticeは見習いとか弟子という意味ですが、この番組は大手企業に勤めたい人が集まり、ライバル同士で2グループに分かれて、与えられた課題に対して競うというものです。例えば、服をクリーニングするというビジネスでどちらの方がより多く、収益を出すことができたかを競います。
負けた方のチームのうち少なくとも1人は「You’re fired!」お前はクビだと言われます。
とてもシビアですが、見ていておもしろいですが、内容もムズイです。誰にどこに問題があったのか、誰がうまく働いて勝利に貢献できたのかを討論します。
語学学校を卒業後、1ヶ月のインターンを経験しました。インターン先は車を扱うディーラーでした。基本は書類を整理したりする簡単な作業だったため、特に面白みはありませんでした。
私がトロントへ留学した時期が最悪で、11月にもかかわらず大雪で-20℃ぐらいだったのが、インパクトが大きく、直観的にトロントで奮闘して仕事探したり、永住権を取得することもないなと決断していました。
インターン中から終わりにかけて、コロナが流行りだしました。(カナダではまだ)
オンライン面接、セブ島での転職決定
このままトロントでなんらかの活動をしていても、コロナの影響がカナダにも来て、行動の自由に制限がかかってくること+冬の時期は寒さがきつすぎることを考えて、就活をオンラインで始めました。
特に場所にこだわりがあったわけではないですが、英語が通じる、トロントみたいにくそ寒くない、+セブ島留学時点で既に付き合っていたフィリピン人の彼女と、このまま遠距離を続けるのもしんどいと考えて、セブ島で仕事を探すことに決めました。
最後の理由が最も決定的でありましたが、丁度一通りSIerとして仕事の経験がある人を募集していたことが幸いして、私の期待と会社側の要望がマッチし、セブ島での仕事が決まりました。
私は、Cebupotという日本人向けにセブの情報を発信しているサイトから、仕事があるか相談に応じてもらいました。
2020年~現在
2020年3月上旬では、カナダ(トロント)には、コロナは広まっていなく、まだ行動の制限はされていなかったため、運よく、トロントからマニラ、セブへと直行しました。
現在の仕事は、フィリピン人エンジニアとの英語でのコミュニケーションをしつつ、プロジェクトをまわす、BSEやPMのようなことをしていて、とても楽しいです。
前職もマネジメント系はしていましたが、既存システムの追加改修案件や保守であったり、あまり目新しい新技術を取り入れるみたいなこともなかったため、モチベーション的には下がりぎみでした。
現在では、常に新しい案件と新しい技術要素を取り入れることが多いので、とても新鮮です。
これからも常に日々精進して、新しい技術を取り入れつつ、役立つ情報を知識体系として発信していければと考えています。